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上海市浦東新区宣伝部の陳高宏部長
バランスの取れた社会事業の発展
陳高宏氏は、「1993年、私が安徽省から浦東に赴任してきたばかりのときには、慣れないことがたくさんありました。その中で最もおかしいと思ったのは、浦東の人自身が自分を上海人だと思っておらず、浦西に行くことが上海に行くことだと思っていたことです。20年余り前、上海人の間では『浦西のベッド一つの方が、浦東の一部屋よりまし』という言い方がありました。当時の浦西の居住環境が浦東よりよかったからです。しかし、もし当時、浦西のベッド1つの値段で浦東の1部屋を買っていたら、今では大いに値が上がったことでしょう」と述べた。
「ここ数年、浦東は社会事業の面でめざましい発展を遂げました。浦東新区の社会事業に対する経費支出は毎年平均14.8%増えており、これは税収の成長率を上回るもので、その税収の成長率はGDPの伸び率を上回っています。浦東開発18年間の経済発展が実力以上の力を発揮していると言うなら、社会事業の発展はそれよりもっと実力以上の力を発揮しています」と陳高宏氏は笑いながら語った。
この数年来、浦東新区では合計で111ヵ所の中学校、小学校、幼稚園の校舎が改築、拡張、新築され、清華大学、北京大学、復旦大学などの名門校が引きつけられて浦東で研究・開発機関を設立した。基本的な医療サービス体系が更に改善され、都市と農村の格差は一層縮小している。水、空気、騒音、土壌の汚染処理、家庭ゴミと固形廃棄物の処理を重点に、環境保護を強化している。同時に、庶民の生活水準が明らかに向上しており、2007年、都市部住民の1人当たり総所得は2万6000元で1990年初の9倍となり、近郊地区の住民は1万3000元で1990年初の10倍となった。
2010年までに、浦東新区の都市部住民の1人当たり可処分所得は約2万9000元に、近郊地区住民の1人当たり可処分所得は約1万5000元に達し、社会保険加入率は95%以上に達すると見込まれている。
浦東開発・開放と中国改革開放
1980年代中期には黄浦江を渡って海岸に着いても村落しか見えなかった。18年間で浦東は全くの田園風景から、神話のように上海のシンボルになり、「中国の改革開放のシンボル」になった。
「80年代の深センの改革・開放が、中国の改革・開放の『氷を砕く旅』ならば、90年代の浦東の開発・開放は、改革・開放事業の『難関の突破』と言えるでしょう」と陳高宏氏はしばらく考えたあとで語った。また同氏は「時間的に見ると、浦東の開発・開放は80年代の深センの改革・開放から今世紀の全面的な西部大開発までの過程において、前の事業を受けて未来を開拓するという過渡的な役割を果たしました。また空間的に見ると、沿海から内陸まで、東部から西部まで、浦東の開発・開放は中国の改革開放を推進する過程における重要な『戦略の中枢』です。歴史的な意義から見ると、浦東の開発・開放は明確に社会主義市場経済の運行メカニズムを構築するという歴史的使命を担っており、その中には市場システム、市場法則、市場環境の建設などが含まれています。計画経済の時期には、全国の60%の工場や労働者が上海に集中して、中国の計画経済の極地までいったのが上海でした。上海が計画経済体制から市場経済体制へと順調に転換できれば、中国全体の経済パターンの転換も問題がないと考えられました」と述べた。
上海浦東の開発・開放を先導役として、さらに長江沿岸部都市の開放を加速させ、上海を国際経済、金融、貿易センターの一つとして建設することで、長江デルタ地帯および長江流域地帯全体の新たな飛躍をもたらす。上海浦東新区は改革開放と自主的イノベーションの中で重要な役割を発揮している。中国共産党第14回・第15回・第16回・第17回全国代表大会の報告で連続して言及された地区はただ1つ、それが「浦東」だ。
「北京週報日本語版」2008年6月11日
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