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――鄧小平氏逝去10周年を記念して
馮建華
「改革のおかげで、私たち農民は腹いっぱい食べられるようになり、鄧小平氏は本当に偉い!」「鄧小平氏の逝去後、もう10年になるが、私たちはいつまでもこの偉人を忘れることはない」と「改革開放の総設計技師」、中国のもと国家指導者であった故鄧小平氏に言及した際、農民李樹林さん(55歳)はこう語った。
李樹林さんの故人に対するこのまごころのこもった素朴な気持ちは、この世代の農民の中でも非常に代表的なものである。李樹林さんは中国北部の山西省のかなり伝統的な農村に生まれ、地元の人たちは遠出することが非常に少なく、ふだんの畑仕事以外、レジャー娯楽などはめったにない。学校に5年間しか行っていない李樹林さんは、本を読む習慣を身につけ、時事政治の動きに対しては農民の特有な視角を持っていた。
李樹林さんの生活は別に豊かではなく、作柄がいったんよくないと、生活は時にはかなりきびしくなる。しかし、彼は中国が改革開放を推し進めたやり方の正しさを確信し、今でも感謝の心を抱いている。
鄧小平氏はパーキンソン氏病総合症候群を患い、末期には肺部感染を併発し、呼吸・循環機能が衰弱し、いろいろ手を尽くしたが効き目がなく、1997年2月19日21時8分に北京で逝去した。
1997年は中国人にとっては誇りとすべき年であるとともに、悲しむべき年でもあった。この年の7月1日に、香港が中国に復帰し、鄧小平氏が打ち出した「一国二制度」は香港のスムーズな復帰に対しカギとなる役割を果たした。鄧小平氏の晩年における最大の願いは「香港に行って見てくる」ということであった。しかし、これは彼の起伏に富む人生の最大の心残りとなり、あと5カ月にも至らぬというのに、結局間に合わなかった。
「追いつめられたあげくの」改革
鄧小平という西側の世界からほめられていた「負けることを知らない小柄な人物」は、中国の発展と進歩に対しなみなみならぬ、すぐれた貢献をした。氏の伝奇的な一生においては、さまざまな「肩書き」があったが、しかし、人々に最も深い記憶として残っているのは「中国の改革開放の総設計技師」という呼称である。
1978年12月、党内のあるハイレベルの会議で、中国は改革開放を一つの基本的国策にし、中国の特色を持つ社会主義の道を歩むことを打ち出した。ほかでもなくその会議で、鄧小平氏を核心とする中国共産党の第2世代の指導グループが形成された。
当時、中国では10年間もつづいた「混乱」に終止符が打たれたばかりで、経済、社会は極度に衰退の境地に陥ることになった。しかし、鄧小平氏の強力なバックアップのもとで、中国の市場化に向う改革は1歩1歩と歴史の急行車線に入り、それによってこの憂いと苦難をなめ尽した国と人民にとっては速やかに復興する望みが見えてきた。いささかの疑問もなく、鄧小平氏が推進した市場化の改革がなければ、経済が急速な発展をとげる今日の中国はありえなかったであろう。
「改革はある人物がふと思いついたものではなく、客観的な情勢に迫られてのことであり、改革しなければ、国の状況を変えることは不可能で、中華民族に将来性はあり得ない」と中国社会科学院社会学教授の徐友漁氏は鄧小平氏が当時に改革を極力主張した社会の現実的背景を分析している。
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