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社員は地元および近隣省の、休暇に帰郷できる圏内を中心に、高等専門学校の卒業生を新規採用しているという。その初任給は平均2000元。大卒者も含めて毎年約30名を4ヶ月間、日本での研修に送り出している。現地の給与水準から言えば高給だ。「この会社は、給料はいいが、厳しい」と受け止められる環境づくりに腐心している、と松宮氏は言う。遅刻やボルトの締め忘れなどの品質管理面での軽率な行為には罰金を科しているという。その一方で、新入社員でも一目でわかるようなマニュアルづくりにも力を入れている。「工場はショー・ルーム」をモットーとしているという松宮氏の言葉通り、工場参観の際にはこちらの姿を認めた全ての従業員が軽く会釈してくれる。また、床には塵(ちり)1つ落ちておらず、仕事を終えたセクションでの機材などは整然と直線をなして置かれ、気持ちのよいすっきりした工場となっている。
同工場は自動生産ラインが稼動しており、このことも従業員数を少なく抑えることができる大きな要因となっている。姚益主任はここを「中国初のサイバー工場です」と胸を張る。その言葉を裏付けるかのように、同工場設立後には江沢民前国家主席を始め、呉邦国全人代常務委員会委員長、賈慶林政協会議議長、呉官正中央政治局常務委員、呉儀前副首相らが工場視察に訪れており、工場を入って右手の壁にはその視察の際の写真がずらりと掲げられている。
同社の“売り”は、この自動生産ラインと北京、上海など全国14カ所に張りめぐらされた24時間体制のアフターサービス網だ。

資材の所要量と時期、在庫量などを系統的に算定するMRPソフトを
内蔵した立体倉庫で自動管理。これでユーザーへの納期や部品の
メンテナンスなどを管理している
05年、独資企業に
しかし、初めから全てが順調に運んだわけではなかった。1999年の会社立ち上げから関わってきた松宮文昭副総経理は設計を専門とする技術畑出身の人物だが、その松宮氏によると、中国進出や独資企業への移行に関しては日本国内、中国国内ともにさまざまな議論があったという。初めは当時の寧夏長城機器集団との合弁企業(中国側75%、日本側25%)を99年3月に設立し2000年5月に開業、2年間で黒字に転換させた。売上を伸ばす中で築かれた信頼関係を基礎に02年に38%の出資率、05年に100%の独資企業へと移行した。その背後には、合弁会社の立ち上げ直後に打ち出された中国の「西部大開発」政策が追い風となった経緯がある。松宮氏は「西部大開発の波に乗れたことがラッキーだった」と振り返る。また、進出した90年代末には日本は不況の只中にあったが、むしろそのために優秀な人材を日本から引き抜くことができ、未上場、無借金の強みで不況を乗り切れた、と松宮氏は言う。
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