2008年はすでに最後のカウントダウンの段階に入り、中国の改革開放30周年記念活動もピークに達している。今年はトウ小平氏の訪日と中日平和友好条約の締結からも30周年にあたる。両者の時期的な一致は決して偶然ではない。中国の発展は国際情勢や世界経済と切り離せないし、改革開放と隣国日本となると、なおさら緊密な結びつきがあるのだ。過去30年の間に、歴史問題や釣魚島問題で中日関係にはさまざまな対立や摩擦が生じたが、改革開放の各段階において日本が発揮した役割を否定することはできない。(文:王錦思)
日本はわずか7年で経済水準を戦前の最高水準にまで回復させ、わずか25年で世界第2位の経済大国の王座に登り詰めた。トウ小平氏は日本が餓死者の死体が野に満ち、万事が建直しを要していた苦境から、世界第2位の経済大国へと迅速に崛起した壮挙を大いに称賛した。
トウ小平氏は、ちょうど中国共産党第11期中央委委員会第3回全体会議前夜の1978年10月、「中日平和友好条約」締結のために訪日し、この機会を借りて入念な視察を行い、経済的奇跡を成し遂げた日本のノウハウを尋ね、思索を巡らせた。トウ小平氏は「私が今回日本に来たのは、日本に教えを請うためだ」「科学技術の発展における日本の進んだ経験を持ち借りたい」と語った。
トウ小平氏の訪日は、中国の改革開放にとって鍵になる旅だったと人々に見なされている。この訪問後、中国は日本をモデルとした経済発展を決定し、改革開放の百年の大計を定めた。トウ小平氏の倍増構想は、日本の所得倍増計画に啓発されたものかも知れない。
1979年12月に訪中した大平正芳首相は、中国の改革開放政策を全面的に支持し、経済・教育・文化など幅広い分野で物的・人的支援を行う意向を表明した。
1人当たりGNPが約350ドルで、外貨準備高がわずか1億6700万ドルだった30年前の中国に、日本政府は500億円(2億2000万ドル)の円借款を提供した。日本は中国にとって最大の援助国で、中国が外国から受けた援助の66.9%、金額にして2000億元余りが日本からのものだ。これらは中国の鉄道・道路・港湾・空港などのインフラ整備、および農村開発・環境保護・医療・教育などに幅広く用いられている。日本側が中国に派遣した専門家は2002年までに1万2000人を超える。日中の貿易額は9年連続で記録を更新し、07年には2366億ドルを超えて、中国は米国を抜き日本にとって最大の貿易相手国となった。両国間の人的往来も延べ512万人に達した。
トウ小平氏は東京から関西まで新幹線に乗った際、記者に感想を聞かれて「速い。本当に速い。 後ろから鞭で打っているような速さだ。これこそわれわれが求めている速さだ」「われわれは今、走ることをとても必要としている」「今回の訪日で現代化とは何かがわかった」と語った。30年間で中国経済は急成長し、GDPでは世界4位に躍り上がり、貿易額では世界3位、173品目の商品の生産で世界1位になり、世界経済の成長への貢献では米国に次ぐ世界2位の地位にある。中国は日本の受動的な被支援国から日本経済の復活を促す国となった。日本経済が長期的な衰退と低迷から転換し、復活を成し遂げる上で、「中国要素」は重要な力となっている。
日本なしでも改革開放は前進できたと推察は可能だが、異なる方式、異なる内容が生じていたであろうことに疑問の余地はない。だが歴史は日本を選択し、トウ小平氏は日本を選択し、これを改革開放のブースターの1つとした。中国はこれによって活力に満ち、今なお大きな利益を受けているのである。
「人民網日本語版」2008年12月24日 |