本刊記者 金多優
中国ではもとより「食は中国にあり、味は四川にあり」との言がある。四川と同じルーツをもつ重慶では、グルメはこの都市における永遠のトピックである。重慶の食べ物は辛さを主としている。たとえば、酸辣粉(透明な麺に酸っぱ辛いスープをかけたもの)、辣子鶏(鶏の辛い唐揚げ)、毛血旺(辛いスープでモツや野菜などを煮た料理)などは、すべて全国にその名を知られるメニューである。
重慶の食べ物の中でも、影響力が最も大きいのは疑いもなく重慶火鍋であろう。火鍋とは日本のしゃぶしゃぶのようなもので、重慶火鍋は「しゃぶしゃぶ」するスープが激辛なのが特徴である。この重慶火鍋はすでに中国各地に広まっており、西北のゴビ砂漠にあるゴルムドから東の海岸沿いの上海まで、北は氷の町ハルピンから椰子の茂る海口市まで、どこでもさまざまなスタイルの重慶火鍋の店を見ることができる。
重慶火鍋はまたの名を毛肚火鍋あるいは麻辣火鍋といい、その起源は明末清初の嘉陵江河畔にある。伝統的な重慶火鍋は毛肚(牛の胃袋)を主として、その他の材料もほとんどすべてが牛から取られている。それににんにくの芽、もやしなどの野菜を加える。今や火鍋のスープはさまざまな種類があり、材料も家禽類や水産物、海鮮、動物の内臓、きのこ、野菜など何百種類にも達し、何でも火鍋の材料になるともいえる。
重慶では、火鍋を愛する食通ならば、重慶一の火鍋店との誉れが高い「趙二火鍋」の名を知らぬものはない。この火鍋店は、重慶火鍋の「保守派」の頭領たる人物が経営している。「趙二火鍋」の主人趙珍栓の息子趙勇によると、彼の父は20数年間ずっと、最も正統でオリジナルな重慶火鍋を模索しているという。「重慶火鍋を食べた客は、食べたばかりはそれほど辛いとは感じず、食べてゆく間にしだいに辛さが増してゆくものの、箸は止まらず、最後に辛くて口をあけてハーハーするくらいになっても、まだ食べたいと思うのです。」趙勇からみると、これこそが重慶火鍋の魅力であり、古くからの重慶火鍋の特色である。
1985年に開店した「趙二火鍋」は、幾度にもわたる変遷をへて、開店当初の3つのテーブルだけの狭い店から、1300平方メートルあまりある新しい店舗を構えるまでにいたっているが、これは伝統を守り、広告を一切行わず、チェーン展開を行わない「趙二火鍋」にとって、簡単に成し遂げられることではない。火鍋の味を保つため、趙珍栓の火鍋のスープへの執着は信じ難いほどである。24年もの間、「趙二火鍋」のスープはすべてこの老主人が自ら手がけてきた。彼からすると「味がすべてであり、自らのウリを自ら損なうことはできない」のである。
スープに手をかけるほかにも、新鮮で量もたっぷりな具材も、「趙二火鍋」の成功の鍵となっている。「自分が食べたいと思わないものは人にも食べさせない」、これは趙珍栓が口癖のようにいう言葉である。材料の新鮮さを保つために、「趙二火鍋」では、毎年夏と冬の三カ月、店を閉める。年中無休があたり前の飲食店のなかにあって、驚くべき行為である。趙勇によると、「古い店にはエアコンがなく、夏はあまりに暑くなるため、客がすぐ暑さにやられてしまい、さらに材料も保存が難しいからです。冬には、サプライヤーがみな旧正月で休んでしまい、買えるものはみな旧正月前に蓄えた冷凍物で、新鮮ではありません。それならばいっそのこと休業してしまえ、ということになったのです。」
「趙二火鍋」の店内では、最近ではほとんど見られなくなった昔の火鍋店の面影を見ることができる。特別あつらえの高いテーブルと椅子、鉄や銅の鍋、そして鍋のなかではスープがぐつぐつと煮えたぎり、まわりを囲んだ客は虎視眈々と鍋のなかの具を見つめながら、地元の「山城ビール」を飲んでいる。暑い夏になると、火鍋店はますます繁盛する。火と唐辛子の作用で、客はみな汗だくになっており、シャツを脱いでもろ肌脱ぎになって「戦い」にそなえている者さえいる。
「伝統を守る」のが「趙二火鍋」の最大の特色であろう。次から次へと新手の火鍋が重慶の街中に生まれるなかで、趙珍栓はずっと彼の火鍋に注意深く「微調整」をおこなってきた。彼は重慶というこの「火鍋王国」では、「保守」が必ず「革新」を破るということを人々に証明しているかのようにも見える。
「北京週報日本語版」2009年9月24日 |