本誌記者 徐 蓓
秦淮川(王祥 撮影)
秦淮川夫子廟(王祥 撮影)
都市と河川はいつも切り離すことのできない関係にあるもので、世界の著名な都市には、いつも1本のその町と切り離さないよく知られた川がある。南京の人たちに母となる川と見なされている秦淮川は、何千年もの歴史と文化の堆積を経て、南京という六つの王朝の古都の何回かの繁栄と衰退のストーリーを黙々と記録しており、中国の現代化の過程におけるこの都市の住民の生活の変化をも見届けている。
千年の文化の堆積
秦淮川は南京城の南部と南郊外区を流れる川で、全長は110キロ、流域面積は2631平方キロ。川の水は南京城の通済門の外で2本に分かれている。1本は「内側の秦淮川」で、東水関から城内に流れ込み、夫子廟、鎮淮橋を経由して西水関から流れ出、長さは約5キロである。いま1本は「外側の秦淮川」で、つまり明代(西暦1368-1644年)の南京城の外堀であり、南京城の東、南、西の三方を遠まわりになぞるようにして水西門の近くで内側の秦淮川と合流している。秦淮川は下関区三叉河の近くで長江に流れ込んでいる。
歴史の記載によると、早くも新石器時代に、秦淮川の両岸には南京地域の最も早い時期の原始集落と町が形成された。六朝の時期(西暦3世紀の初期―6世紀の末期)から五代十国(西暦907―960年)にかけて、時代の推移に伴って、南京は相前後して繁栄と衰退のサイクルを何回も経験した。
歴史上、南京はかつて11回も都が置かれた。六朝の時期においては、夫子廟地区はすでにかなりにぎやかなところとなり、烏衣巷、朱雀街、桃葉渡などはすべてその時の名門の家族が住んでいたところであった。明代(西暦1368-1644年)に、夫子廟は教育管理機構の官吏選抜の試験場として、受験生たちが多数集まったところでもある。ここにはまたさまざまなサービス業が集中し、料理屋、茶店、軽食店などがあり、妓楼や女郎部屋も次々と現れた。人々がよく知っている「櫂(かい)の音、ともし火の影が十華里も繋がり、歌姫、花船(花で飾りをつけた船)が汚れた水の波と戯れる」、「絵付きの船、蕭、太鼓が昼夜絶えることなし」という詩句が描写しているのは往時の秦淮川の上のにぎやかな光景である。
しかし、近代に入ってから、陸路交通が発達したため、舟運は衰退し、南京城の発展が秦淮川に依存する度合は次第に減少し、清代(西暦1616-1911年)の末期と民国期(19世紀末20世紀初めの頃)には南京城の都市の規模が拡大し、秦淮川両岸の住民がますます多くなり、生活ゴミが河床に堆積し、長年続く戦争で政府はまったく治水に取り組む暇がなかったことに加えて、秦淮川は一時期南京の発展の障害ともなってしまった。
粗放型経済モデルの下で「犠牲」となる
「1950年代には米をとぎ、野菜を洗い、1960年代には洗濯したり、灌漑に使ったりで、1970年代には水質が悪化し、1980年代には魚介類も絶滅し、1990年代には人間の心身にも悪影響を及んだ」――この秦淮川に関するざれ歌がかつて民間に広く伝わり、それは秦淮川の前世紀後半期の50年間の変化をイメージとして描き出したものである。
「少年時代に、秦淮川の水は澄みきっていた。私が学校へ行って中華門一帯を流れる秦淮川区間を通るたびに、いつも川辺で衣服を洗う人の姿をよく見かけた。最も暑い夏休みには、私達はよく秦淮川に行って泳いだものだった。でも、1970年代以後、秦淮川の水質が悪くなり始めたようである。私の娘が生まれた後、私達は秦淮川の川岸を通るたびに、いつも鼻を覆ってはや足で通り過ぎなければならなかった」と、今年50歳の陳樺さんは記者に語った。
1949年の新中国の建国以降、中国は大規模な工業化の道を歩み始め、技術手段が立ち後れ、汚染のひどい企業が南京市の旧市街区に「落ち着くことになった」。南京市人民政府の資料によると、1983年前後、全長5キロの内側の秦淮川の沿岸には大小さまざまな工場が220以上もあり、外側の秦淮川の沿岸には70社以上もあった。これらの工場の汚水のほとんどは処理を経ることなく直接秦淮川に排出され、水質をひどく汚濁させた。「当時、盲目的に工業化を追求する中で、河川と環境の汚染によってもたらされた社会問題は完全に無視された」と、南京大学社会学部教授の周暁虹博士はこう語った。
河川の汚染に対して川沿いの住民はしきりに苦情を訴えた。「川水はますます汚くなり、ますます臭くなり、夏になると私達は川側の窓を開ける気さえなかった。10月になっても、家ではまだ蚊取り線香を使わなければならず、さもなければハエや蚊が家へ入ってくるのだった!当時、唯一の願いは直ちに建物を取り壊して立ち退き、一日も早くここを離れることであった」と、中華門釣魚台32号に住んでいるお年寄りの劉永柱さんは語った。
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