一九三七年、日本軍国主義者が中国になだれ込んだ。北京が落ちて三日目に、日本侵略者はわたしの家を捜索した。当時、わたしは天津に難避けており、その後、家人ともども転々と国民党政府の所在地重慶に至り、そこで教育関係と民主運動の仕事に従事した。重慶で、わたしの住いは日本侵略者の盲爆で破壊され、行き所がなくなり、二週間後にやっと一部屋に移り住んだ。その頃の反動政府は人民が死のうと生きようと問題にしなかった。
国民党反動派は国を売って保身につとめ、汚職を働いて私腹を肥やそうとする連中ばかりだった。蔣介石の中国大陸支配の二十二年間、内戦は途絶えたことがなく、人民は貧しくなるばかりであったのに反し、蔣、宋、孔、陳の四大ファミリーは在外預金をどんどん増やしていた。蔣介石は重慶での七年間、毎年市民から重慶長江道路橋の建設資金を募っていた。市民は七年間もたて続けに献金したが、そのカネはすべて汚職官吏の懐を肥やしただけで、なんの結果も得られず、川幅数十メートルでしかない重慶側南岸には一メートルの橋脚さえ築かれなかった。解放後、われわれは武漢、南京、重慶などに長江大橋を架橋した。
古都北京の新しい装いも、新旧二つの中国の天と地ほどの違いを浮きぼりにしている。抗日戦争が勝利したあと、わたしは重慶から北平(北京の旧称)に戻り、再び北京大学教授となった。その頃、北京の路地はゴミの山だらけで、古同さ三、四メートルというケースもあった。北京の故宮には明代(一三六八―一六四四年)のゴミまで積まれていたが、解放後やっときれいになった。解放まえ、一般の北京市民が食べていたのはトウモロコシ粉のマンジュウで、毎年たくさんの乞食が街頭で餓死したり、凍死したりした。コメやメリケン粉はすべて輸入に頼っていた。工業の立遅れはいっそうひどく、普通の日用品も輸入ものばかり、「洋油(灯油)、洋火(マッチ)、洋布(機械織りの布地)、洋衫(シャツ)、洋袜(靴下)」(訳注―洋はここでは外国製の意)と呼ばれ、自国製品はほとんどなかった。現在、社会主義の新北京では工農業とも大きく成長している。わが国は現在まだ豊かとは言えないが、九億の人民は衣食にこと欠かないということが、旧中国では全く不可能なことであった。
わたし個人も解放まえは、貧困と病魔にとりつかれていた。抗日戦争の時期、重慶滞在中の七年のうち六年は病床に伏し、毎年マラリアに悩まされていた。当時、国産の薬品はほとんどなく、キニーネさえ人に頼んで香港から高い金で買うほかなく、たくさん買えば支払えないしまつであった。毎年少しずつしか買えないので、マラリアを根治することができなかった。いまや、国産の漢方薬•西洋薬が何でもあり、職員•労働者は公費医療を享受している。社会主義新中国が誕生しなかったら、わたしのような老人はとうのむかしに死んでいたろう。
一九六八年、わたしは思いがけず腸ガンになった。当時は、林彪や「四人組」が横行していた時期で病院の秩序は乱れきっていた。わたしの発病を知った周恩来総理は、自ら北京医院に電話を入れ、綿密に検査、治療するよう頼んでくれた。慎重な手術と細心な看護のおかげで、十二年経過した今も再発していない。
昔のことを思い起こすたびにわたしは、共産党と社会主義に非常な身近さを感じる。現在、華国鋒同志をはじめとする党中央は全国人民を指導し、国と人民の災のもとであった「四人組」を粉砕し、党の実事求是の輝かしい伝統を回復、発揚している。以前、「四人組」はしたい放題のことをしたが、いまでは、法律のまえに誰もが平等である。冤罪、誤審、デッチ上げ事件のたぐいは、もとの決定をくつがえして汚名をそそぎ、誤りは是正されている。社会主義建設を破壊する悪人に対しては、断固として法をもって臨み、反革命は粛清される。事実が証明しているように、われわれの党は自分の力で自らの肉体のウミをだし、自らの過ちを改めることができる。このような党が中国人民を指導して社会主義の道を歩むなら、「四つの現代化」の前途は明るい。
各部門で党の実施している方針、政策も全く正しい。一九六五年わたしが水産部長の職にあったとき、党の「調整、強化、充実、向上」を内容とする国民経済発展の方針を正しく貫いたことにより、海洋漁業に大きな前進が見られ、日本向けにクルマエビを輸出することもできた。その後は単一農業に走り、穀物重点主義に陥り、畜産、水産業は影が薄くなった。党はいま再び「調整、改革、整頓、向上」という国民経済調整の総方針を打ちだしている。この総方針に根ざし、自然法則と経済法則にてらして農業、軽工業、重工業のバランス関係を調整し、農業内部のバランス関係を調整していけば、社会主義の近代的工業を全面的に発展させることができるばかりでなく、農業、林業、畜産業、副業、水産業も全面的に発展させることができる。これは中国人民の食生活(穀類摂取のパーセンテージを下げ、肉蛋白、酪農製品のパーセンテージを上げる)の改善に、かならず積極的な推進的役割を果たすであろう。わたしは、歴史的な経験からこの方針の正しさを予見している。
二〇〇〇年を展望したとき、わたしは中国がその頃には四つの現代化をなしとげた国になっているだろうと見ている。わたしは中国共産党の指導する事業に満腔の希望をいだいている。わたしは死後共産党員として追認されるのを待つわけにはゆかなかった。わたしは九十歳近いときに再び入党を申請し、党組織の承認を得た。わたしは息のあるうちに思想的にも、組織的にも中国共産党に入党し、半世紀まえの希望を実現したことに、興奮と名誉を感じている。今後、わたしはなお自分の力を出しつくして中国式の社会主義現代化の実現に寄与したいと念じている。
[注释]
※ 筆者は一九一九年の反帝•反封建の「五四」運動の指導者の一人。現在は全国人民代表大会常務委員会副委員長、中国人民政治協商会議全国委員会副主席、「九三学社」主席。
「北京週報日本語版」資料 |