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砂原さんの信念を受け継ぐために アニメ『血と心』制作者座談会
  ·   2023-02-24  ·  ソース:人民中国
タグ: アニメ;中日関係;中日交流
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信念と心情が制作をけん引  

王衆一 完成した作品を見ると、これは間違いなく丁寧に作られた素晴らしい国産アニメです。多くの人物像が細かく豊かに描かれ、漫画版をベースに、物語における葛藤やリズムにさらに合理的な想像が加えられており、当時まだ健在だった砂原さんからも認められました。特に記録映像の要素を取り入れ、細部のリアリティーを最大限追求することで、歴史再現度が極めて高い作品になっています。

劉飛 私と『血と心』との出会いは、19年に王さんが主催した中央党校の研修クラスでした。講師と受講生の交流の中で、王さんは、中国共産党が指導した革命事業において、日本人が自己のアイデンティティーと心のよりどころを見つけた伝奇的な物語を紹介しました。李さんが創作した漫画『血と心』を読んだ後、私は、中国の物語を本当にしっかりと語るにはこのような良い題材が必要だと思いました。その後、私は縁あってアニメのアドバイザーチームに参加し、真剣に歴史を再現しようとする制作スタッフの態度を目の当たりにしました。エグゼクティブ・プロデューサーの楊さんが言及した形態の刷新とは、まさにこのような厳格にリアリティーを求める実務的姿勢に基づいています。また、アドバイザーたちと制作チームは共にアニメ全体を細かく審査して、一話ずつ見て、せりふを一言ずつチェックして、どんな細部も見逃しませんでした。このように細部まで徹底的にこだわったからこそ、このアニメの歴史的リアリティーはほとんど文句のつけようのないものとなりました。

朱承銘 劉さんの述べられた通りです。私たちには最高のアドバイザーチームがついていて、皆さんベテランの日本問題あるいは歴史・軍事問題の専門家です。また、私たちの若手制作チームも非常に真面目で、細部のリアリティーの再現に大変こだわりました。彼らは1930年代の重要建築や街並みを実際に見学して、書類に埋もれながら各種歴史資料を閲覧し、当時のポスターや手紙、軍服のデザイン、字の書き方などを調べました。説得力のある例をあげましょう。砂原さんは生前のインタビューで、50年代中期に日本に帰国する前、北京で天安門の前を通ったが、当時の天安門の城楼上には毛主席の肖像画がかかっていなかったのをよく覚えていると何度も言っていました。このことについて、制作チームはとても困惑しました。なぜなら皆、子どもの頃から、天安門の城楼上にはいつも毛主席の肖像画がかかっていることを知っていたからです。後に、アドバイザーチームがさまざまな資料を調べて、50年代中期には、天安門の毛主席の肖像画は重要な祝祭日にのみかけられていたことが分かりました。アドバイザーたちはさらに、北京映画製作所の50年代中期前後のロゴをわざわざ探し出し、この事実を証明しました。アニメのこのシーンでは、当時の歴史と砂原さんの記憶を尊重すると同時に、リアルタイムの弾幕およびトップに配置したコメントで、天安門にかけられた毛主席の肖像画に関する歴史的知識を説明することにしました。これらの細部はいささかも適当にはできません。そんなことをすれば、作品を愛しているがゆえに厳しい目で見る視聴者から指摘されますし、歴史や私たちの心の検証にも耐えられません。

楊碩 総監督として、私は楊さんと同じく砂原さんの伝奇的な物語に感動しました。2020年5月、監督を務めないかとの誘いを受け、この漫画の最初のページをめくったとき、私とこの作品の縁が始まりました。もっと砂原さんの物語を知るために、たくさんの資料を探し、14年に行われたインタビューを見つけました。砂原さんはその中で次のように語っていました。「私は一体何者なのか。この問いはずっと私を悩ませてきました。私は日本にいますが、毎日寝る前や目覚めた後に考えるのは、日本のことよりも中国のことの方が多いのです。私は中国人です」。この言葉は私の心に深く響き、郷愁に似た気持ちが湧き上がりました。そのとき、私の脳裏にある場面が浮かびました。一人の若者が船首に立ち、深い思いを込めて大海の向こう側に敬礼しているというものです。その日、私はこの作品の制作に加わることを決めました。そして、この場面は後に『血と心』の最初の予告PVの最後のシーンになりました。

高洪 二人の楊さんのお話に大変心を打たれました。1000日近くの日々、アニメ『血と心』の若い制作チームは大いに心血を注ぎ、汗を流しました。そして作品自体も度重なる修正や推敲によって質が次第に向上しました。「配信日決定」のPVを見たとき私は、努力は必ず報われる、全ての努力に価値がある、と感じました。このような成果が得られたのは、砂原さんの物語に対してチームメンバーが非常に親しみを覚えていたことと切り離せません。人を感動させる作品はまず創作者自身を感動させる必要があるからです。

李瑶瓊 高さんの仰る通りです。私は若手脚本家として、まさにこの伝奇的な物語に感動したことで、心の底から熱い創作意欲が湧き起こったのです。私たちの年代の人は、歴史の教科書でこの時期の歴史を読んだことがあるだけです。何億もの人々の運命の浮き沈みが、私たちの手の上ではたった数ページです。平和な時代に生まれた私たちは、全く異なる世界に暮らしています。幸福と苦難は離れすぎているため、私たちがあの時期の歴史に感情移入することは難しいです。私たちはぼんやりとした想像に頼ることしかできず、歴史のリアルな感触を再現することはほとんど無理です。しかし、砂原さんの伝奇的な物語は、私たちのためにリアルな歴史に近づく窓を開けてくれました。一つ一つの大きな歴史の節目が、一人の少年の成長の経験と共に私たちの目の前に現れました。戦火と泥濘が彼の青春を満たし、運命の大きな流れが何度も少年を壊滅の縁へと押しやりました。しかし最終的に、革命の火の光が彼を救いました。でも勇敢な性格の彼は救われる対象であることに満足せず、喜び勇んでその革命の火の光をかかげ、混沌とした暗い世界から抜け出しました。立場の変化によって、彼は何度も疑問に直面し、「否定の否定」を経験することになりました。さまざまな試練を乗り越えた後、彼はついに少年から一人の戦士に成長しました。そして、私たちはこの戦士の一生から次のように悟りました。歴史の感触は、壊れかけた古い物品から伝わるのでも、概略の記録から伝わるのでもない。それは、一人一人のリアルな人間から伝わるものであり、彼らの最も誠実な信念と心情から伝わるものである、と。現在、砂原さんはすでに私たちから遠く離れてしまいました。あの時代も私たちから遠ざかっています。この気持ちを持ち続け、この信念を伝えることが、私たちがこの作品を創る原動力となりました。

共通の志を持ち感動を伝える  

楊璐 確かに高さんの仰る通り、『血と心』のプロジェクトチームでは、アニメチームから記録映像チームまで、エグゼクティブ・プロデューサーからプロデューサーまで、監督から脚本家まで、求めていたのは『血と心』プロジェクトに深く賛同し、同じ目標を持つ仲間でした。そして、各界の専門家のアドバイザーの先生たちが強力な支持によって、私たちの創作をさらに鍛え上げてくれました。私としては、この物語がもたらしてくれた感動が、作品を磨き上げる最大の原動力となりました。歴史は、写真や映像の記録があっても、いつも遠くにあって、真実味がないような感じで、それが近代の歴史であっても、ぼんやりとしたモノクロ画面の背後にもとは色彩や感触があったとはなかなか想像できませんでした。子どものころ、私は日本の残留孤児に関するノンフィクションを読みショックを受けました。そのとき初めて、私たちと日本との間には、戦争や血と涙、恨みだけではなく、複雑に絡み合った絆があり、一人一人の平凡で生き生きとした生命が、時代の奔流の中で、一生懸命に生きて、未来を追い求めていたことを知りました。私はアニメによって、平凡かつ偉大な物語を描きたいと思っています。その物語では、私たちと同じように、全ての人に喜怒哀楽があり、追求するものや夢があります。時代はゆっくりと移り変わり、小川のように全ての命の背後に流れています。時代の奔流は全ての人を巻き込みますが、人々はまた共に歴史の物語を紡いでいきます。そして『血と心』はこのような物語を完璧に伝えています。

高天予 シナリオライター兼シナリオ編集である私は総監督の楊さんとコンビです。私も彼らと同じく、この伝奇的な物語に非常に感動しました。私と楊さんが取り組むべきことは、砂原さんの立場の変化――「軍国少年」から「中国革命軍人」への変化――この大きな人物の軌跡をいかにリアルに表現するかということでした。私たちは砂原さんご本人の人生を深く掘り下げ、歴史を注釈とし、個人を主体として、価値観の変化の重要な節目を探し、彼の心の動きに沿って物語の流れを組み立てました。私たちは砂原さんの価値観の変化を五つの段階に分けました。つまり、①日本の敗戦を経験し、関東軍に捨てられ、軍国主義の価値観が崩れた②中国の農民に身をやつし、地元の人々に受け入れられ、新たな社会的関係が生まれ、新しい立場を確立した③土地改革を経験し、中国の土地と結ばれ、新しい家ができた④自ら解放軍に入隊し、解放戦争を経験し、中国革命と人生が結ばれ、革命価値観が確立した⑤朝鮮戦争を経験し、新中国の運命と結ばれ、アイデンティティーを再構築した――としました。内在の価値観を外在化し、視聴できるものとするために、私たちは「食べ物」を象徴的記号として選びました。中国人は「民は食をもって天となす」といいます。私たちは何を食べるかによってアイデンティティーを象徴させ、前述の五つの心理的段階に「五つの食事」を対応させました。①砂原さん一家は中国の東北地方にやって来て、「日本の家庭料理」で引っ越しを祝った②砂原さん一家は軍隊と共に日本へ帰国しようとし、「日本の家庭料理」で関東軍の大佐をもてなそうとしたが、大佐は現れず、砂原さんの父親の病気は重くなり、日本は敗戦し、一家は難民になった③土地改革大会で、砂原さん一家は解放軍の誘いを受け、「酸菜ギョーザ」を味わい、田畑の分配を受けて定住し、生活と人生が変わった④朝鮮戦争で、砂原さんは志願軍の戦友と共に「はったい粉の雪あえ」を食べ、状況は厳しかったが、彼は苦労をいとわなかった⑤旧東北航空学校で、新中国の初代空軍の建設に参加した砂原さんは、学校が提供する「日本人向けの良い食事」を拒否したが、それは彼が日本人としての立場を拒んでいたからだった――。「五つの段階」と「五つの食事」を巡っては、アニメ『血と心』の中で、次のことが分かります。砂原さんが、母国が敗戦した後、精神の祖国を見つけたこと。実の父親が亡くなった後、精神の父親を見つけたこと。軍国主義の価値観が崩れた後、革命の信仰を見つけたこと。前者は彼の血で、彼がどこから来たのかを語り、後者は彼の心で、彼を帰路に導くのです。

田濤 このようなストーリー構成は非常に巧妙で、部分部分がうまくつながっているところが魅力的です。実際、あの時代の流れの中で、張さんのように「血と心の転換」を実現した人は、彼だけではありませんでした。何度もお会いし、話し合った中で、彼から次のような感動的な話もお聞きしました。

1986年、旧東北航空学校創立40周年の際に、当時それぞれ空軍司令官と副司令官だった王海、林虎の両将軍は、同校出身の元日本人解放軍兵士50人を中国に招きました。張さんはそのうちの2人のことをとても感慨深そうに思い起こしていました。一人は、日本に帰国したとき38歳だった飛行教官の筒井重雄さんで、もう一人は、当時47歳だった元日本陸軍少佐の林弥一郎さんでした。張さんの話によると、中国政府は2人の帰国後の生活に配慮して、58年にやっと2人の帰国を手配しました。帰国後、2人は差別を受け、一般の仕事に就くことが難しかったそうです。就職活動のたびに、日本の警察が会社に乗り込んできて、「赤色中国」を手助けしていた彼らの採用を妨害しました。筒井さんの兄は、「赤色」の経歴を洗い落とせると、航空自衛隊への入隊まで勧めてきたそうです。しかし、旧東北航空学校での年月と、中国の人民空軍の建設のために努力したことを思い出した筒井さんは、それを誇らしく思い、自分は自衛隊とは違う価値観を持っていることを兄に伝えました。飛行機に関わっていたいとは思いつつも、兄の好意を拒んだ筒井さんは結局、妻と共に妻のふるさとの長野県に戻り、数年前に亡くなるまでずっと果樹栽培で生計を立てていました。中国政府は筒井さんのことを忘れておらず、彼が亡くなる前に、自宅に関係者を派遣して、慰労と感謝の意を表しました。2015年、中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念の際には、筒井さんの息子が北京を訪れ、父親に代わって中国政府から記念の勲章を受け取りました。

もう一人の話にも私は深く感動しました。中日国交正常化後の1974年、旧東北航空学校の指導者だった王濤さん(当時の交通部水運局副局長)が日本を訪問し、大阪に立ち寄った際、同校出身の元日本人解放軍兵士の方々を中華料理に招待しました。当時、林弥一郎さんは兵庫県のある船舶解体工場で肉体労働をしていましたが、王濤さんは彼を必ず招きたいと特別に配慮しました。仕事を終え、電車で急いで会場に向かった林さんは、着替える暇もなく、油まみれの作業着のままで到着しました。スーツ姿の出席者が多い中、林さんは少し場違いな感じでしたが、王濤さんは優しくその手を握り締め、彼の来場に感謝しました。久しぶりに中国人や昔の上司に会えて非常に感動した林さんは、テーブルに残った肉まんを持ち帰り、旧友に会えた喜びと航空学校での生活の思い出を家族にも伝えたいと言いました……。この感動的な場面について話したとき、張さんは私に言いました。この一幕は、中国政府が旧友を忘れず、新中国の空軍建設に貢献した元日本人解放軍兵士たちを忘れていないことに対する、林さんの感謝の表れであり、このような気持ちは他人にはなかなか理解や体験ができないものです、と。張さんはかつて、新中国の空軍建設に尽力したことを誇りに思い、かつての仲間を懐かしむとともに、元日本人解放軍兵士たちの功績を忘れていない中国の政府と軍隊に心から感謝していました。

楊碩 そのような気持ちは、私たちの台本の中で、ある一言のせりふで表現されています。砂原さんが日本人であることが発覚したとき、政治委員は彼に「わが軍のためにいろいろとありがとう」と伝えました。このせりふは、実はCCTV(中国中央テレビ)のあるインタビューの中で、砂原さんが語った言葉です。当時、砂原さんは思い出しながら声を詰まらせ、それ以上は語りませんでした……。このせりふをアニメの中の政治委員に言わせたことで、砂原さんへの敬意を表しました。砂原さんは携帯電話の着信音を『中国人民解放軍行進曲』にしていて、私は彼の人民軍隊への帰属感に深く感動しました。それで、アニメの中で、砂原さんが仲間と別れるシーンでは、軍歌を歌うようにアレンジしたのです。砂原さんが亡くなった後、葬儀の際に流した音楽も『三大紀律八項注意』などの革命曲だったと聞いて、目が潤みました。兵士たちが『中国人民志願軍戦歌』を歌いながら送別するシーンを制作して良かったです。それを私たちの心の底からの、張さんへの静かなお別れにしたいと思います。

閲兵式の観覧席に立ち、戦友たちに囲まれていた頃に戻ったように感じている砂原さんを描いたシーン

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