
9月4日、北京の中国人民大学で開かれた「孫文と梅屋庄吉の交誼とその時代国際学術シンポジウム」で基調講演を行うアジア平和貢献センターの西原春夫理事長
――孫文と梅屋庄吉展では、民間交流の重要性をアピールしています。西原先生は長年日中交流に尽力されています。先生が そもそも中国に関心を持たれたのは、いつごろ、どのようにしてだったのでしょうか。
初めて中国に来たのが1982年だった。当時は、私は早稲田大学の教育学術関係の副総長だった。82年の1月ごろ、駐日中国大使館を通じて、北京大学から、早稲田大学と学術交流を結びたいという要望を伝えてきた。これまでは、早稲田大学は中国の大学と(学術交流関係を)まだひとつも結んでいなかった。北京大学にとっても、日本の大学と(学術交流関係を)まだひとつも結んでいなかった。それで、私は担当だったので、北京大学で行われた調印式に来た。そもそも中国に来たのはこれが初めてだった。今では、(訪中は)60何回目ぐらいになる。
その調印式の挨拶で、私は中国に対する気持ちを表した。そのとき、私はこう話した。「1945年、終戦時、私は17歳で、まだ高校生だった。当時、軍国主義教育を受け、日本は正義の戦争をしていたと本当に思っていた。ところが、終戦後はすぐに分からなかったが、2、3年がたつうちに、日本が戦争中何をやったかというのがだんだんはっきりしてきた。私たちが教育を受けたのとまるきり違ったことがあったということが分かった。私は愕然とした。私が考えたのは、それだけのことをやってしまった日本は、やっぱり迷惑をかけた国々に償いをしなければならないということだった。おそらく一代で済まない、何代にもわたって償いをしなければならないようなことを日本はやってしまった。しかし、私は当時二十歳で、何も償いできない。そこで、当時こういうことを決意した。いずれ大きくなったら何になるか分からないが、大きくなってから、その何らかの立場から、償いの一部をすることができるようになるだろう。そのときまで、今の思いを忘れないようにしよう、というのが当時の決意だった。今、私は政治家ではないから、日中関係の政治的な問題を解決できない。経済人ではないから、お金を提供することもできない。だが、私は日本の中で影響力のある大学の代表者である。学術とか、教育とか、学術の交流については、こういう立場から、何らかのことができる立場にある。そこで、私はどれだけのことができるか分からないが、二十歳の時のその気持ちを再び思い起こして、学術、教育の交流という形で日中の今後に何らかの貢献をする」。
そのとき、北京大学の人たちはやはり日本人と付き合うのは初めてだったから、その挨拶をするまで、なんだか表情が固かった。ところが、その挨拶の後で、バァーッと雰囲気が変わった。なぜなのか?早稲田大学は「裸になった」からだ。人間は「裸と裸とで」付き合わなければ、本当に付き合うことができない。そういうことで北京大学との交流が始まった。その時の私の気持ちが、中国への思いの中で一番強く持っていることだ。
|