蜂起軍が武漢を占領すると、孫中山はただちに帰国し、初代の大総統にえらばれました。しかしかれの任期はわずかでした。それは、真の権力が袁世凱をかしらとする軍人の手中にあったからです。袁世凱は大軍閥、大官僚であり、清朝皇帝が退位するまで一貫して清朝の召使いでした。袁世凱は保守的分子と帝国主義の支持のもとに、孫中山を辞職させ、みずから大総統に就任しました。のちに、わたしは孫中山に、なぜ南京で総統をやめたのか、ときいたことがあります。かれは、自分には革命の軍隊もなく、革命的な幹部もいなかった、といっていました。かれは、もっとも愛国的で、もっとも信頼できると考えていた中国の海員を組織しなかったことをひじょうに後悔していました。当時、反清革命で孫中山の親密な協力者の一人であった汪精衛ですら、袁世凱に買収されてしまったのです。
袁世凱は総統の職権を利用して軍事独裁をうちたて、あわよくば皇帝になろうとしていました。孫中山が指導する国民党(その前身は同盟会)は非合法化され、国会は解散させられ、袁の多くの政敵は暗殺されました。一九一三年、袁は軍隊を南下させ、辛亥革命のときに立ちあがった軍隊を攻撃しました。孫中山はこれらの軍隊にあくまで抵抗させようとしましたが、みな力が弱く、失敗してしまいました。孫中山と多くの同志たちは、日本へ避難しました。
辛亥革命が初期に勝利をおさめることができたのは、ブルジョアジーが労働者、農民、都市の小ブルジョアジーの支持を得たからです。それが失敗したのは、国民党指導部がたえず動揺していたからで(これは国民党の階級構成によるものです)、その主な原因は、農民問題を正しく処理できなかったことにあります。毛主席は、「国民革命には農村の大きな変動が必要である。辛亥革命には、こうした変動がなかったから失敗したのである。」(『湖南省農民運動の視察報告』)と指摘されています。辛亥革命は、農民の受けている抑圧を少しも軽くしはしませんでした。逆に革命後、政権は封建階級と帝国主義のいいなりになる人びとの手ににぎられ、かれらは農民にたいする抑圧をつよめました。
これはつまり、中国の根本問題である封建主義と帝国主義の支配をくつがえす問題がなんら解決されなかったので、革命闘争をひきつづきおこなわなければならないということでした。孫中山はこのことを見てとり、この認識にもとづいて行動をおこしました。かれのこうしたゆるぐことのない精神は、当時のすべての愛国的、革命的な中国人の学ぶべき手本となりました。かれのこの精神は人民をいっそう目ざめさせ、人民に国家と人民がおかれている屈辱の地位を悟らせ、祖国解放のためにすべての力をそそぐ決意をかためさせました。
一九一四年に、孫中山は日本で中華革命党を結成しました。この新しい党は国民党から分裂してできたものです。この党がつくられたことは、孫中山が国民党の妥協政策―この政策こそ袁世凱の露はらいをつとめたのです―に不満を抱いていたことを物語っています。しかし、この新しい党は袁世凱にあくまで反対することではちがっていましたが、やはり、ブルジョアジーと小ブルジョアジーの代表の連盟でした。孫中山はこの新しい党を通じて、一九一四年と一九一六年に、二度上海で武装蜂起をおこしました。二度目の蜂起はかれが秘密裏に帰国して、みずから指導したものです。かれの影響をうけて、上海の海軍部隊が別の革命蜂起をおこしました。ちょうどこのとき、袁世凱が突然死に、他の軍閥がいりみだれて袁の権力の奪いあいをはじめました。
一九一七年、孫中山は蜂起した海軍の軍艦をひきいて、上海から広州に向かいました。かれは南方の軍閥と同盟を結び、北方の軍閥に反対する政府をうちたてました。袁世凱に解散させられた国会は再開され、孫中山は広州の護法政府の大総統にえらばれました。かれはただちに北伐の計画と準備にとりかかりました。一九二一年、北伐軍は湖南省、広西省を出発しました。一九二二年、南方の軍閥陳炯明が北方の軍閥と結託して寝返ったので、北伐軍は後方をおびやかされました。一九二四年、イギリスの匯豊銀行から資金援助を受けていた買弁陳廉伯のひきいる雇い軍―広州「商団」が広州政府に反対しました。孫中山は革命軍を指導して敵軍をうちやぶりました。
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