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林 国本
さいきん、中国でも「持続可能な発展」、「節エネ」、「環境保全」というキーワードが、メディアでよく見かけることになった。それはその必要性を感じるようになったからだ。そして、中国のあちこちで「節エネ、環境保全」の逆を行くような、小さな発電所が爆破、撤去されているテレビの映像をよく目にすることにもなった。当局の決意がそこに読み取れるし、また、それは事の切迫性がなすところでもある。もちろん、発展途上国の中国がこう決断を下すことは、並大抵のことではない。「ドカーン、グニャグニャ、バシャーン」と発電所が爆破され、瓦れきの山と化すまでは結構なことだが、映像を見ている筆者にとっては、もうひとつ別の映像が頭の中に浮かんでくるのだ。つまり、こうして消えてしまった発電所で働いていた従業員たちの再就職はどうなるのか、ということだ。オートメーション化した近代化発電所に移るには、たいへんな再トレーニングの必要があろうし、なかにはもう新しいテクノロジーについて行けなくなっている人もいる。北京の空気をよりクリーンなものにするため、他の省に移転した企業で、年老いた父母のそばにいたいという理由で早期退職し、タクシーの運転手になっている人に会ったこともある。
中国の公式の文献にも、今世紀の半ば頃には、中国も中程度の発達国になっている、という表現が出ている。つまり、その時になれば、発展途上国だといって、「モラトリアム」を求めることは不可能となるわけだ。そのためにも、今のうちに次々と省エネ、環境保全のために手を打っておかなればならない。さもなければやがて多大なコストを払うことになろう。環境事典をひもといてみると、イタイイタイ病、水俣病とほとんどすべての用語は、メイド・インジャパンで、かつて日本で発生した公害をもとつくられた言葉だ。その日本がマイナスを逆手に取って、世界でトップの環境保護、省エネ技術を持つに至り、世界じゅうで協力を求められている。そこからわれわれは大いなる希望を見てとることができるのではないか。有人宇宙飛行さえやりとげた中国も、やればできないことはない。ただ、発展途上国としてまだ手が回らないだけのことだ。北京にある日本の協力でつくられた中日環境センターに何回か足を運んだことがあるが、これまでに日本からいろいろなものが紹介されている。中国国内で省エネ・環境保護関係の大学を巣立った若者も大勢いる。そういう意味で、中国にとっても、持続可能な発展というキーワードは現実味をもったものとなっている。
さいきん、北京の国家図書館で偶然にもオープン式書架に東大の松井孝典教授の『コトの本質』という本が並べられていることに気づき、さっそく読んでみたが、地球惑星の海の形成とか人間圏という話も出てきて、それこそ目からウロコが落ちるような気になったが、視座を変えて見れば、この惑星に適応した生物の種として、もう一度、持続可能な発展というコンセプトを考え直してみる必要を感じた。百数十年らい、願ってきたモータリゼーション、近代化を手にしつつある中国の人びとは、それこそ競い合うように自動車ローンの「奴隷」となってもかまわない、という意気込みで、車を買っており、私の子供の同窓らは、会社のエグゼクティブとなって、すでに三回は車を買え換えている。そして、ステータス・シンボルとかいう「共同幻想」のもと、アメリカン・ライフスタイルを追い求める人もいないとは言えない。筆者はテレビの映像で、骨と皮だけとなったアフリカの子供たちの姿を目にするたびに、外食でフランス料理に舌つづみを打つ自分たちは、同じ人間圏に生きる者として、心を痛めるときもある。松井教授と一緒にある会合でお会いした日本の宇宙飛行士の話などを思い起こし、日本の月周回観測衛星「かぐや」の伝送してきた地球の画像をも思い起こし、人類は持続可能な発展の道を歩まなければ、やがては絶滅に瀕することになるかもしれないし、松井教授の言われるような「安楽死」の道を歩むことになるかもしれない。
「北京週報日本語版」2008年7月4日 |