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文化会館、高校生そして日本人
静岡県で最初に訪れたのは、小笠郡大東町でした。同町の文化会館があるところは、中日文化交流にきわめて大きな貢献をされた松本亀次郎氏(1866-1945年)の出身地で、日本でもっとも早くに中国人留学生に日本語を教えた教師の一人です。1940年代には燕京大学でも教壇に立っていて、学生や弟子はおよそ2万人いるといわれます。故周恩来総理や魯迅も彼の学生でした。
文化会館々長の松本洋一郎氏は亀次郎氏のひ孫です。展示室には、松本氏の生前の所信や中国人留学生のために編集した日本語辞典、日本語教材などの資料が数多く展示されていました。そのなかには松本氏が中国侵略戦争に反対し、中日友好を主張した関係資料も少なくありません。洋一郎氏は「曽祖父と同じように中日両国の世代の友好のために自らの力を尽くしたい。資料館が展示する目的は、人びとに中日両国人の友好の歴史を胸に刻んでもらい、両国の人びとの間の友情を絶えず深めていくことにあります」と話されていました。
掛川一帯の特産である葛布(くずふ)は耐寒性があり、しかも生命力が強く、砂漠地帯でも繁殖することでよく知られています。80年代半ばから、掛川西高等学校の生徒たちは葛布の種子を採取するとともに、内蒙古自治区や遼寧省の関係当局に寄贈してきました。砂漠地帯でまいた種子は90年代にかなりの面積にわたって生長し、砂漠の改良に一定の役割を果たすことができました。西高で開かれた座談会の席で、私たちは種子を採取した子どもたちと会うことができました。青い制服を着て、言葉はどこか遠慮がちで、それに気恥ずかしそうでした。中国語はもちろん話せません。それでもその朴訥な語り口に、いまだ行ったこともない隣国に寄せる友好的な気持ちがにじみ出ていました。
前世紀の日本人の多くは中国文化を非常に熱愛しているようでした。70歳になる戸塚氏は磐田市内にある雑貨店の店主で、中国語を非常に流暢に話されます。驚いたのは、高等教育を受けたことはないのですが、日本語版の4巻の「毛沢東全集」や「鄧小平文選」「李白と杜甫」(郭沫若著)、「中国名詩鑑賞辞典」などの書を収蔵されていたことでした。わたしは戸塚氏のお宅に泊めていただいたのですが、二階にある寝室の壁には李白の詩がたくさん掛けられていました。戸塚氏は「これらは中国の友人が送ってくれたものですよ。とても好きでね」。
沼津市日中友好協会の会長で、ツツジを研究している専門家の加藤伍一郎氏は「日本のツツジは30種余りですが、中国には300種以上もありますよ。中国人と同じように、日本人もツツジが好きなのですよ」と話されていた。中国から多くのツツジの若苗を導入するため、加藤氏は中国科学院植物研究所と長期協力関係を締結。90年代には北京の香山植物園や植物研究所を何度も訪れ、交流や視察を行うなど、加藤氏が導入した中国のツツジは長野県や北海道などでも栽培に成功しているという。
いろいろな場で、数多くの友好的な集まりのなかで、わたしはどこに行っても年配の方々にお会いすることができました。年配者がよく話された中国語は、「対不起」と「請原諒」でした。年齢から見て、70歳前後ではなかったでしょうか。この方々は恐らくは当時、戦争に無理やり駆り出された兵士だったのではないかと、思います。表だってこの一つの歴史を口にすることはしませんでしたが、私たちは忘れたことはありませんし、こうした昔の兵士も忘れてはいないことでしょう。私の父母は戦場で日本人と戦いましたが、昔の日本の兵士が心から謝罪することを耳にしたならば恐らく、許すことができるのではないか、と思っています。すでに父母は他界し、昔の兵士も少なくなりつつあるなか、一つのある歴史、そして一つのある世代は一つの歴史として記録されようとしています。とはいえ、こうした歴史が再演されないことを願ってやみません。
「北京週報日本語版」 2008年3月27日
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