貂蝉は中国古代「四大美女」の一人だ。その出自については、甘粛省臨洮・陝西省米脂・山西省忻州と諸説あるが、河北省邯鄲市博物館の郝良真館長はこのほど、各種資料を元に「貂蝉と河北省永年県には重要な関係があった」と推論している。
2007年4月初め、同氏は邯鄲市冀南の骨董品市場で、永年県で出土した唐代の墓誌と宋代の石刻を発見した。墓誌の銘文には「貂蝉里」と、そして石刻には「貂蝉村」と記されていた。
石刻は高さ60センチ、重さ約500キログラム。銘文は41行にわたって縦書きに約1000字が刻まれている。銘文には「乾興元年(西暦1022年)八月一日戊戌時立」と作られた時期が記されており、また「永年県貂蝉村木匠都料馬誼(永年県貂蝉村の木工、馬誼)」と、永年県貂蝉村という地名がはっきりと記されている。 唐の時代、今日の村にあたる組織は「里」と呼ばれ、宋代に「村」となった。出土した墓誌や石刻から、ここに貂蝉村という村があったことがわかる。そして貂蝉の生きた時代は、唐の時代から400年も離れていない。同氏は言う。「この唐代の墓誌によって、永年県に貂蝉村というものがあったことが、初めて明らかになった」。 貂蝉村がなぜ唐・宋代以降の同地方の文献から消えてしまったのかについては、「洺河という川の氾濫によって、流されてしまったのだろう」と、同氏は言う。
「唐代の墓誌、そして宋代の石刻という2つの遺物史料を見るに、貂蝉と永年はある重要なつながりがあるというのは間違いない。ひょっとして永年の出身だったのかもしれない。もちろん、これからさらに永年県一帯の民間に伝わる貂蝉の伝説などの史料も、集めなければならない」と、同氏は語る。 |