
1987年に引き上げられた、厚さ約3センチ、長さ170センチ、表面に金メッキがほどこされ、非常に細かい細工で構造も複雑なチェーンが人々の目を引いた。

引き上げられた美しい磁器
多くの謎
2002年3月~5月、中国国家博物館と広東省文物考古研究所などが共同で「南海Ⅰ号」の初期発掘をおこなった。沈没船のなかの面積がたった1平方メートルしかない小さな船倉から、大量の美しい遺物が引き上げられた。そのうち磁器は4000個で、そのほかにも漆器、石製品、鉄器、銅器、馬蹄銀、大量の銅銭が見つかった。専門家の推測によると、沈没船内の遺物の総数は6万~8万にものぼるという。
今までに水揚げされた遺物は、船倉内から発見された各種の磁器がおもで、その種類とおかれた位置から推測すると、この船のおもな積荷は磁器であったと考えられる。
2004年、専門家たちは「南海Ⅰ号」のさらに詳しい調査を行った。このときの調査では大量の銅銭が引き上げられ、そのほとんどが北宋代の異なった年代のものであった。最も古いものは後漢の「貨泉」で、そのほかにも隋唐•五代の銅銭もわずかに見られた。最も新しい年代の銅銭は南宋の「紹興元宝」であったため、「南海Ⅰ号」の沈んだ時期は800年ほど前の南宋の時代だと考えられる。
引き上げられた遺物のなかでも、1987年に引き上げられた、厚さ約3センチ、長さ170センチ、表面に金メッキがほどこされ、非常に細かい細工で構造も複雑なチェーンが人々の目を引いた。チェーンの両端のホック部分から、これはベルトで、見事な品であるため、船長のものだったのではないかと水中考古学者は推測する。このベルトの形や技術は中国のものとはまったく異なっており、明らかに西アジアの様式である。このベルトの形からすると、船長は西方の出身だったと考えられる。これらの考古学発見は「南海一号」と海のシルクロードとの関係を感じさせるものとなっている。
中国の南海からインド洋に至る航海ルートは、遅くとも漢代には開かれていた。しかし、宋代の航海技術の発展によって、遠洋貿易の商船はようやく沿岸から離れて航海することが可能になった。宋•元代の中国海上貿易の発展については、早くもイタリアの商人マルコ•ポーロが彼の旅行記で記している。近年、イギリスの学者によって整理•出版された『ザ•シティー•オフ•ライト』には、西方人によって当時「東方第一の港」と称された泉州港の様子がいきいきと記録されている。そして、「南海一号」は、この航路を行きかう何千もの商船のうちのひとつだったに違いない。
中国の南海からインド洋に至る海のシルクロードのルートには、海岸線が複雑だったり、暗礁が多かったり、難所がいくつもある。そのほか悪天候も商船に被害を与えた。「南海一号」が沈んだのも、航行中に突然暴風にあったためと考えられる。
「南海一号」は文化を満載した船である。発見されてからというもの、各界の専門家たちはこれに大きな期待を寄せてきた。「南海一号」は、造船史、海港史、航海史、海のシルクロード貿易史、磁器の製造史など多くの方面に直接的で最も信頼のおける、最も新しい第一次資料を提供することを期待されている。
「北京週報日本語版」2008年3月13日
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