86年11月、彼は日本で開かれた第3回国際ヴァイオリン・ピアノ・コンクールの審査委員を務めた。終了後、日本にとどまってコンサートを開くことにしたが、リサイタルなので伴奏するピアノリストが必要。そこで友人が瀬田さんを推薦してくれた。日本国立音楽院を卒業後、ヨーロッパで研鑽を積んで帰国したばかりだった瀬田さんは、その時25歳。彼は瀬田さんにフランクのヴァイオリン・ソナタイ長調を手渡して弾いてもらうことにした。このソナタのピアノの部分は非常に難しく、この曲を通して瀬田さんのレベルを知りたいと考えたからだ。一週間後、二人はまた顔を合わせた。その時に彼が感じたのは、彼女の弾奏は活力と想像力に溢れ、音楽的な感覚が自分とよく似ていることだった。そこで、彼女に伴奏してもらうことを決定。87年3月28日、東京のコンサートでともに舞台に立ち、ここから二人の協力が始まった。
盛中国氏は公演を終えて日本を離れる際、瀬田さんに「信頼・理解」という4つの文字を書き残した。その後、彼女は彼とともに中国で公演を始めた。公演回数が非常に多かったので、彼女は思い切って日本での仕事をやめ、彼の伴奏を努めるかたわら常にリサイタルを開催。90年に北京で初めてアジア競技大会が開かれることになり、二人は3回のコンサート収入を大会本部に寄付した。
瀬田さんは「信頼・理解」という4つの文字は一番大切だと思っている。「二人は事業を追求するなかで、気持ちの交流点を見つけたのです。コンサートが成功したら、二人でその喜びを味わえるし、不満なところがあっても、心配や辛さを二人で分かち合えるのです」
盛中国氏は音楽分野で活躍しているだけでなく、現在は全国政治協商会議委員、中国民主同盟中央委員会委員、中国音楽家協会理事、中国交響楽発展基金会理事、表現芸術委員会委員などを務めている。音楽界に貢献したことで、世界の音楽界の権威が賞賛する言葉は、「傑出した偉大な音楽家」「最も魅力的なヴァイオリニスト」「中国のメニューイン」だ。
「北京週報日本語版」2007年2月6日
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