その後、山間部に労働に行かされる。そして「五・七幹部学校」(文化大革命時、毛沢東が5月7日に指示を出して造られた農場。国家機関の幹部や科学・教育関連機関などで働くインテリを送り込み、労働を通じて思想を改めさせた)に移され、労働改造を経験。一日の労働を終えると、髪はのび放題で垢だらけのままベッドに横たわる校友をよそに、耕地に水をやる水道管で体をきれいに洗うと、外に飛び出してヴァイオリンの練習をしたという。
「芸術家として、あの時の苦しみがあったからこそ、考え方や芸術そのものが大きく変わったのです。演奏で人の世の移ろいや深さを表現できるようになり、生命にある大切にすべきものをより大切にするようになりました。芸術家にとっては、苦しみはよいことであって悪いことではないんです」。盛氏はこう語る。
芸術の春
文化大革命が終わって数カ月後、盛中国氏は芸術の春を再び迎えた。まず北京でコンサートを4回開催。2回も追加公演するなどいずれも超満員となった。さらに広州でも5回連続して公演、その1回は香港に生中継された。この間、芸術映画「春」や彼をモデルにした劇映画「生活の顫音(トリル)」の制作に参加した。
盛中国氏が最も誇りを感じているのは、80年に招請されてオーストラリアの6都市でコンサートを6回開いたことだ。これを機にヴァイオリン演奏による中国の国際交流が始まった。コンサート会場の5回はシドニーオペラハウス。聴衆の嵐のような拍手のなか、カーテンコールに応えてバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータを演奏。それでも拍手は鳴りやまなかった。「一般に、バッハの無伴奏ヴァイオリン作品は非常に古く、あまり共感を呼ぶことはないが、どんな風に弾いたら聴衆からあのように熱烈な拍手が起きるのか」と記者に聞かれ、彼はこう答えている。「あなた方はバッハを神と見なし、人と神は交流できないと見ています。私はバッハを神から人へと変えているので、人と人とは互いに理解できるのです」。オーストラリア在住の多くの年配の華僑もコンサート終了後、彼の手を握り「外国で数十年も暮らしているが、今日は最も晴れ晴れとした気分になった一日でした」と語った。その目には涙が溢れていた。こうした気持ちに、彼は中国人としての誇りを深く感じ取ったという。この公演は全オーストラリアで大いに好評を博し、中国とオーストラリアの文化交流史の一里塚となった。
日本人の妻
盛中国氏は94年に20歳年下の日本人ピアニストの瀬田裕子さんと結婚。彼には2回の離婚暦があった。
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