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中国共産党創立70周年  
中国共産党はどのようにマルクス主義を発展させたか

 

 胡喬木

  筆者は中国共産党の有名な理論家で、この論文は六月二十五日付けの『人民日報』に掲載された。全文は約二万華字であるが、ここにはその一部を訳載した。
―編集部


中国共産党の辿った七十年の歴史は、マルクス主義を成功裏に活用し、発展させた歴史である。では、どの面でマルクス主義を発展させたのか。

(一)プロレタリアートの指導する農民土地革命戦争の思想と、農村でもって都市を包囲する革命発展の道を打ち出した。プロレタリアートの指導したこの農民土地革命戦争は、マルクス、エンゲルスの時代にはまだ思いもよらないものだった。マルクスもエンゲルスも、農民をプロレタリアートの同盟軍として獲得しなければならないことには留意したが、西欧の農民(彼らの状況は中国の農民とは違っていた)には革命の必要性がなく、しかも、当時の革命的プロレタリアートの勢力はまだ東方にまでは伸びていなかった。レーニンは、東方諸国のプロレタリアートは革命闘争に向けての農民の指導を重視しなければならないと述べたが、レーニンの党は農民闘争を指導するほどの十分な経験があったわけではなく、十月革命のときの、土地を農民にというスローガンは、政権を奪い取ったプロレタリアートが宣言し、実現したものであり、農民自らが革命闘争によって実現したものではなかった。中国の広範な農民、とくに貧農は生活が極端に苦しく、革命を切望していた。したがって、プロレタリアートの指導する農民革命闘争は、中国農民の唯一の活路であっただけでなく、中国革命の唯一の活路でもあった。真先にこの点を指摘したのは毛沢東である。一九二七年に彼は井岡山に最初の農村革命根拠地を創設し、その後さらに江西南部、福建西部に広い革命根拠地(中央ソビエト区)をつくり、それを指導した。一九三五年に赤軍が長征して陜北に到達してから、八年間の抗日戦争と三年間の解放戦争を経て、多くの農村革命根拠地が勝利のうちに偉大な人民共和国へと発展した。

江西中央革命根拠地で、第一回中華ソビエト代表大会(上)と中華ソビエト共和国執行委員会第一回会議(下)が開かれた

(二)人民の軍隊と人民戦争に関する一連の創造的な思想を打ち出した。農民の土地革命を発展させ、農村革命根拠地を築き上げられたのは、党が独自に指導する人民武装勢力があったことと切り離せない。中国共産党は一九二七年に労農赤軍を創立し、そして赤軍の性格を「革命の政治的任務を遂行する武装集団」と規定した。赤軍は戦争のほかに、大衆への宣伝、大衆の組織化、大衆の武装化を担当し、大衆による革命政権の樹立、党の組織づくりといった重大な任務まで手伝った。赤軍は、将兵一致、軍民一致と敵軍瓦解という政治工作の三大原則を実行し、政治面の民主、経済面の民主、軍事面の民主を実行した。こうした人民大衆との切っても切れない密接な連係をもっていたため、わが軍は軍事的にワンセットとなった人民戦争の戦略、戦術を形成した。これは国家発展史とマルクス主義の国家理論に新しい一章を書き記したものである。

古い長城で日本侵略者に打撃を与える八路軍

(三)他の政治勢力と革命統一戦線を結成する問題で独特の経験を創造し、一連の新しい理論と戦術原則を打ち出した。革命には広範な統一戦線を結成する必要があり、革命の発展の特定の段階ではブルジョアジーの政党とも統一戦線を結成する必要がある。これはなにも中国共産党の独創ではない。早くも『共産党宣言』に、ドイツでは、ブルジョアジーが革命的行動をとるかぎり、共産党は、ブルジョアジーと共同して、絶対君主制、封建的土地所有などと戦うと書かれていた。しかし、国際共産主義運動が統一戦線の結成で成功した経験は多くない。抗日戦争の八年間は、国共両党が協力もすれば、鋭く対立もした八年間であった。中国共産党は複雑に入り組んだ情勢を正しく認識し、「進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得し、頑迷勢力を孤立させ」、「闘争でもって団結を求め」、闘争の中に「道理があり、有利であり、節度がある」など}連の方針·政策を打ち出した。そのため、党の指導する人民の軍隊とその他の人民勢力は、狂風怒濤を次々と乗り越え、最終的には国民党に比べた劣勢を実質的優勢に変えてしまった。中華人民共和国樹立後、統一戦線は国家の政治生活にとって重要なものとなり、中国共産党の指導する多党協力はわが国の基本的政治制度の一つとなった。

上は長征を終えて陜北に到着した赤軍の一部。下は、延安で、抗日前線に赴く前の宣誓大会を開いている再編八路軍

(四)党の大衆路線の工作方法を創造した。これは党の建設面における中国共産党の突出した貢献の一つである。共産党は誠心誠意人民に奉仕しなければならない、人民大衆は必ず自分で自分を解放しなければならないという毛沢東の観点は、マルクス、エンゲルスの「プロレタリア運動は、大多数者の利益のための大多数者の自主的な運動である」「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業でなければならない」という思想から出たものであろう。ところが、毛沢東が打ち出した「大衆のなかから大衆のなかへ」という観点は、彼の独創である。大衆路線とは、毛沢東の言葉で言えば、「大衆の意見(分散した、系統だっていない意見)を集中し(研究を通じて、集中した系統だった意見にし)、これを再び大衆のなかへ持ち込んで、宣伝と説明を行い、これを大衆の意見にし、これを大衆に堅持させ、行動に移させ、また大衆の行動のなかでそれらの意見が正しいかどうかを検証する。そのあとで、さらに大衆のなかから意見を集中し、再び大衆のなかへ持ち込んで堅持させる。このように無限に繰り返して、一回ごとに、より正しい、より生き生きとした、より豊かなものにしていくのである」ということである。

1956年、農業組合への参加を申請する北京郊外区の農民たち

(五)党内の矛盾を正しく処理し、人民内部の矛盾、敵味方の矛盾を正しく区別、処理する原理を打ち出した。国際共産主義運動史には、党内闘争を論じたものはたくさんあるが、党内の矛盾を正しく処理する原則問題を打ち出したものは非常に少ない。実際生活の中で、ときどき党内の思想、行動に食い違いが起こるのは避け難いことで、中国共産党のように大きな党ではとりわけ避けられないことである。党の規律、団結と戦闘力を保持するためには、党内の矛盾を正しく処理することが、党の生活にとって重大問題となる。中国共産党の歴史では、かって数回の重大な党内の闘争が発生した。そのなかには誤ったものが少なくなく、用いられた方法とその効果はいずれもよくなかった。毛沢東は一九四二年に「前の誤りを後のいましめとし、病をなおして人を救う」という方針を打ち出した。これは、「団結―批判―団結」の方針ともいわれ、思想教育の面をきびしくし、組織処理の面を寛大にして全党を団結させる目的を達成した。後に、党はこの方針を適用する範囲を拡大し、指導者と大衆との関係、軍隊と人民との関係、将校と兵士との関係、いくつかの部隊の相互関係、いくつかの部門の幹部間の関係を処理する面で、大きな成功をおさめた。全国解放後、毛沢東はこの方針を民主党派、商工界にも適用し、一九五七年には、この方針に基づいて『人民内部の矛盾を正しく処理する問題について』と題する報告を行い、性質の異なった二種類の矛盾(人民内部の矛盾と敵味方の矛盾)を正しく処理する原則と方法について系統だった説明を行った。一九八九年の春と夏の変り目に発生した政治波風の処理で、党は同じように党内の矛盾を正しく処理し、人民内部の矛盾と敵味方の矛盾を正しく区別、処理する方針に基づいて処理し、国内情勢を速やかに安定させた。

(六)系統だった新民主主義理論を編み出した。レーニンは一九二〇年に「後進国は資本主義の発展段階を経ることなしにソビエト制度へ移行し、その後一定の発展段階を経て共産主義段階に移行できる」という構想を打ち出したが、実際経験に欠けていたため、成熟した見解とはならなかった。この問題で、中国革命は新しい経験を積み、毛沢東はこれに基づいてマルクス主義に対し新しい貢献をした。毛沢東が一九四〇年一月に書いた『新民主主義論』は、十月革命の影響を受けた、プロレタリアートとその同盟者の政治勢力が比較的に強大で、しかもブルジョアジーの反帝反封建の民主革命への積極性が比較的に弱い国としては、国をどのように建設すべきか、国の政治制度、経済制度、文化制度をどのようにすべきか、また、その国の前途はどうなるかなどの問題について、系統だった答えを出した。中国の歴史の発展は、『新民主主義論』の予見の正しさを証明した。それは民族民主革命に関するマルクス主義理論を大きく発展させたものである。

(七)社会主義改造の平和的実現にとって、人類史上の新しい経験を創造した。マルクス、エンゲルス、レーニンはみな、国家の政権を掌握したプロレタリア階級はブルジョアジーに対し買い上げ政策がとれると構想していた。マルクス、エンゲルスにはその構想を実現するチャンスはなかったが、レーニンは一九一八年と一九二一年の二回にわたって、買い上げを主張した。しかしいずれもロシアの資本家の協力が得られず失敗した。中国共産党はかなり異なる歴史的条件の下にあった。中国の民族ブルジョアジーはかつて抗日民族統一戦線に参加し、解放戦争中もほとんどが政治的に中立の立場をとり、一部の有力者は進歩的な傾向を示し、新民主主義を擁護した。したがって、中国民族ブルジョアジー(商工業者)は一つのグループとして中国人民政治協商会議に参加し、しかもその代表的人物は政府機構に参加した。建国初期に経営面で困難の生じた一部の民族商工業者は、ほとんど政府の支援にたよる必要があり、後日、彼らの人民政府と国営経済への依存度はますます大きくなった。彼らは政府の国家資本主義政策とその分配政策を擁護することを表明した。一九五六年に全業種が公私合営化された後、彼らは一定の期間、それぞれの持ち株に基づいて年間五%の配当金を受け取ることに同意した。こうして、中国は世界で人口の最も多い大国において、買い上げの方式でブルジョアジー問題を解決した。

1984年2月,廈門を視察し、経済特別区のために、「より遠く、より立派に経済特別区を運営せよ」との題字をしたためる鄧小平氏

(八)社会主義的改革·開放の事業を成功裏に行った。改革·開放事業は五〇年代の社会主義改造事業の真の継承である。マルクス主義の創始者たちは、社会主義社会が将来どのような様態になるのか、また、どのような様態になるべきかについては予言できない、これは将来の人々が将来の状況に基づいて自分の実践の中で決めるほかないと再三言明していた。しかし、マルクス、エンゲルス、レーニンが打ち出した論点と構想は、長い間に教条化されてしまった。鄧小平を代表とする中国共産主義者は七〇年代末に、改革を実施することを決定した。中国の改革はまず農村から始まった。広範な農民の願望に基づいて、人民公社の生産管理制は農家生産量連動請負を主とする責任制に改められた。この改革の成功が全般的改革の進展を推進した。都市の経済体制改革は企業の活性化を中心とし、それに相応する計画、財政、税収、金融、物資、商業、貿易、価格、労働·賃金などの改革が押し進められた。同時に、所有制構造の改革(単一の生産財公有制を、公有制を主とする多種の経済形態の併存に改めた)、分配関係の改革(労働に応じた分配を主とする多種の分配形式の実施)、および中央と地方経済権限の再編成などが次々と展開された。政治、教育、科学技術および社会生活のその他分野でも改革が行われた。

改革政策と同時に、開放政策も実施され、対外経済技術·文化交流と協力の範囲が拡大された。外資導入のため、中国は合弁企業、全額外資企業、中外合作企業の経営を奨励するとともに、多くの経済特別区、開放都市、開発区、沿海経済開放区が設けられた。中国の改革·開放政策は、八〇年代の経済発展の中で急速に世界の注目を集める成功をおさめた。

(九)社会主義商品経済の原則と社会主義初級段階の理論を打ち出した。中国の経済体制改革を指導する原則は、社会主義商品経済を発展させることであり、これは社会主義経済の伝統的な思想に対する突破である。社会主義商品経済の原則、つまり計画経済と市場調節とを結びつける原則は、いまのところまだ整った成熟した理論とはなっていないが、中国経済体制改革に前進の方向を指し示し、しかも実践の中で一定の経験を積ませた。中国共産党は八七年に比較的完備した社会主義初級段階の理論を打ち出し、それは、中国の生産力が立ち遅れ、商品経済が発達していない条件の下で、社会主義建設の必然的に経なければならない特定の段階であるとし、五〇年代の社会主義改造が基本的に完成したときから、社会主義現代化が基本的に実現するまで少なくとも百年もの時間がかかると指摘した。それは新中国建国以来の社会主義発展段階問題に関する基本経験を総括し、当面の経済社会発展の現実の任務を客観的事実に即して規定した。

二十ヘクタールの養漁場を請け負って、自ら豊かになってから、ほかの農民たちを援助している安徽省の呉玉勝さん(左二)

(一〇)改革·開放中の中国の社会主義制度が腐食し、覆されぬよう守っている。中国共産党は改革·開放の初期、明確に次のように宣布した。改革は社会主義の自己完備であり、対外開放と同時に腐敗した、不健全な、反社会主義的思想の浸透を防止し、党内、国内の腐敗したけがらわしい現象の復活を防止しなければならず、中国で四つの現代化を実現するには、四つの基本原則(社会主義の道、人民民主主義独裁、共産党の指導、マルクス·レーニン主義、毛沢東思想)を堅持しなければならない。われわれがとっている開放、経済の活性化、改革などの政策の目的は、いずれも社会主義経済を発展させることである。中国の特色をもつ社会主義建設の道は、ほかでもなく、改革·開放政策を堅持するとともに、「平和的転化」を防止し続けることである。

(一一)国際関係の面で、平和共存五原則を打ち出すとともに、それを一貫して実行している。社会制度の異なる国に対し平和共存の外交政策を実行することは、レーニンが十月革命後に打ち出したものである。中国政府はインド政府とともに、一九五四年にはじめて平和共存五原則、つまり主権と領土保全の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存を打ち出した。中国政府は一貫して対外関係のなかで平和共存五原則を実行し、後にこの原則を一部の社会主義国との外交関係にも拡大し適用するようになった。

平和共存五原則を相互に適応すると同時に、中国共産党は外国の政党(ブルジョアジー政党を含む)との関係を処理するのに、独立自主、完全な平等、相互尊重、内部問題の相互不干渉という原則を実行している。

(一二)弁証法的唯物論と史的唯物論の観点を党のすべての工作の中で貫徹した。中国共産党は、すべての活動は実際から出発(調査研究、実事求是)することを突出させ、社会的実践が認識の基礎であること、事物発展の根本的原因は事物の内部の矛盾にあること、階級闘争が階級社会歴史の動力であること、社会現象に対しては階級分析を行うべきであることなどの観点で党のすべての工作を指導している。以上列挙したマルクス主義に対する中国共産党の貢献は、いずれも党が実際活動の中で弁証法的唯物論と史的唯物論の観点から適切に問題を観察し、解決した結果である。

経済効益のよい対外指向型企業を創設した湛江経済技術開発区

「北京週報日本語版」1991年7月16日(No.28)

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