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第二部『川蔵茶馬古道を探して』
  ·   2016-05-17
タグ: 茶;雅安;社会
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この天全県から二郎山を越える茶馬古道に残る伝説は、百年以上語り継がれている。二郎山の険しさは世に知られている。当時、ここから出かけていったまま戻らない背夫たちも多かった。帰りを待ち焦がれる家族にとって、なんと辛い、振り返りたくない過去だろうか。望夫石の伝説の信憑性はもう考証するすべもないが、むしろ伝説に過ぎないと思いたい。チベットへと伸びる古道と歴史の埃をかぶった古道の遺跡。茶馬古道を探る旅は始まったばかりだ。

雅安から出発して、1つは滎経、漢源を経て康定へ、もう1つの道は天全経由で康定へ至り、そこから昌都を経てチベット・ラサへ。さらに隣国ブータン、ネパール、インドへと続く。この長い歴史を持つ困難で危険な茶馬古道は、「川蔵茶馬古道」(川は四川、蔵はチベットの略称)と呼ばれる。

茶馬古道は長い歴史と豊かな辺茶(辺境に運ばれた茶)文化の染み込んだ交易の道だ。「鞋爪子」と呼ばれる履物、背負子、手には「汗刮子」と呼ばれる汗拭き……これが背夫のいでたちだった。中華人民共和国建国前、雅安から康定へと続く茶馬古道では、背夫が山を登り、川を渡り、大相嶺や飛越嶺、二郎山などの山を越えて、重い茶の包みを背負って、瀘定を経てチベットへと入っていった。

雅安は川蔵茶馬古道の起点であり、最も早くからチベットへと運ばれた茶葉の原産地でもあった。宋代、雅安には「茶馬司」という役所が置かれ、清代にはチベット向け茶葉の生産拠点に指定された。

名山県新店鎮長春村にあるこの古い建物は、かつての賑わいを無言のうちに語りかけているかのようだ。宋の神宗熙寧七年に創建された「茶馬司」である。記録のある4つの茶馬司のうち、考証可能な遺跡があるのはここだけだ。

「茶馬司」は宋代以来、茶馬の通商を司る茶関連の政府機関だった。現地の史料によると、当時、名山茶馬司は成都府路に属し、成都府路への辺茶上納を行うと同時に、名山県と百丈県の「名山茶」の調達と茶馬交易に関連する事務を担当した。最盛期には、取扱量は「年間で名山茶を荷駄で2万も運んだ」と形容されるほど多かったという。これは公式の計画総数の半分以上を占めた。

歴史書の記載によると、雅安から康定に至る道は俗に「大路」と呼ばれ、このルートで康定に運ばれる茶は「大路茶」と呼ばれた。明の洪武年間に開通した天全から瀘定へと通じる道は「小路」で、このルートで運ばれた茶は「小路茶」という。茶馬古道はもともと「大路」と「小路」に分かれていたのだ。

川蔵大路茶のルートは必ず滎経県を経由した。当時、楽山洪雅からこの地に移ってきた姜氏茶人が、「仁真杜吉」という銘柄の茶を作り、大変よく売れた。

滎経県厳道鎮民主路にあるこの旧宅は、清代の製茶店、公興茶号の旧跡で、姜家大院とも呼ばれている。四合院の中庭は茶を天日干しするための広場で、これを取り囲む建物はそれぞれ異なる製茶の工程を行う作業場になっていた。当時繁盛した製茶店も、今では建物しか残っていない。旧宅には今も姜家の末裔が暮らす。姜家の人々が代々住んできたこの家は、一族のかつての栄光の歴史を今に伝えている。

滎経県新添郷新添村にある新添古駅站は清代に作られた。駅站は宿場と街道から成っている。駅站のある新添古鎮は、雅安茶馬古道で最もよく保存されている古鎮の1つ。素朴な建築様式で、宿屋の廊下には、当時の時代の息吹が残されている。

石畳に深く穿たれた杖の跡。茶馬古道の敷石はキャラバンと背夫たちに踏みしめられてつるつるになっている。宋代以降、毎年荷駄にして10万もの茶葉が、チベットへと運ばれ続けた。茶馬古道の歴史は背夫たちの血と涙の辛酸の歴史なのだ。

漢源県羊圏門古道に近い新黎村で、唯一健在の女性の背夫に会うことができた。岳秀雲さん。今年85歳になる。

77歳の銭永貴さんは、12、3歳の頃から大人に混じって茶を背負った。銭さんは当時のつらさをよく覚えている。

天全県甘渓坡の古道は当時の「小路」。背夫の姿はもうないが、石に残された杖のくぼみが背夫たちの苦しい道行を物語る。

天全県紫石関の茶馬古道の古い駅站で、陳寿康さんが歌ってくれた民謡は、茶葉を背負って行く背夫たちの姿を思い起こさせる。

陳寿康さんの祖父も父も背夫だった。幼い頃から祖父や父の話を聞いていた陳さんは、当時の背夫たちの状況をよく知っている。

当時の背夫には、農閑期だけこの仕事をする「短脚背夫」と、年間通して従事する「長脚背夫」がいた。茶馬古道の最盛期には、現地の労働力の80%がこの仕事に就いていたという。

雪山が雲をついて聳える遠路を、はるばるやって来る騎馬。背夫たちの苦労を見ると、悲しみがこみ上げる。白髪の老人から十何歳かの子供までが、服を汗で濡らしている。背夫たちの一行は山すそから山頂へと向かう。その辛酸と苦痛は金持ちには理解できない――いくつもの茶の包みを背負って険しい川蔵茶馬古道を行く背夫たちを描写した、清代の詩。美しい詩句が、背夫たちの艱難の歴史を伝える。

1954年12月25日、川蔵公路が開通した。高く険しい山間に続く千年の茶馬古道の、人と馬で茶葉を運んだ時代は終わりを告げた。時が経つにつれて、川蔵茶馬古道には多くの物語があることが分かってきた。その物語は、古道を辿る者たちの心の中で、今も続いている。過去から、未来へ。

「北京週報日本語版」2016年5月20日

第二部『川蔵茶馬古道を探して』--pekinshuho
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