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「私とは何か」を探して 作家・平野啓一郎氏インタビュー
  ·   2019-07-17  ·  ソース:人民網
タグ: 文学;小説;中日交流
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現在、日本のデザインは、中国でも人気があるが、平野氏はそれを支えているのが「カッコいい」という概念であり、「日本と中国の文化は、このように歴史的に相互に密接に結びついている」としている。

また李賀だけでなく、平野氏は非常に尊敬している作家として魯迅を挙げ、「阿Q正伝」や「狂人日記」、またシュルレアリスティックな「野草」も彼が気に入っている作品だ。

現在、日本国内で翻訳される中国人現代作家の作品は以前に比べてかなり増えている。これまでは莫言や鉄凝などの作品が訳されていたが、最近では余華や閻連科、残雪といった作家も紹介されるようになっている。こうした背景もあり、平野氏も「すべての作品を読んだわけではないが、かなり読んだ」のだという。

彼らの作風については、「それぞれに異なる作風だが、概して、中国の小説家は、大きな歴史の変化に翻弄される個人の人生を非常に巧みに描いている。日本では、『自己責任論』という言葉が社会に蔓延しているように、人間の一生の成功や失敗を、個人の意志や努力に帰しすぎる傾向があるので、学ぶところが大きい。社会性を重んじる僕自身の作風と近いところもある。受け容れられやすいかどうかはわからないが、もっと日本でも読まれるべきだと思う」とした。

中日の文学交流における最大の障壁は言語の違い 

中日両国の文学交流の歴史は長く、平野氏は自身の役割について、「その途中でバトンを渡され、次の世代に無事に受け渡す責任がある」としている。

「現在は、非常に友好的な交流が続いている。翻訳を通じて互いの作品を読み合い、またシンポジウムなどで議論を重ねることで、理解が深まり、また多くの友情が芽生えた。そのことに希望を感じる。」

「何よりも、私たちには『文学』という共通基盤があり、トルストイやカフカやガルシア・マルケスを読んで育ったという共通体験がある」とする平野氏は、そのおかげで実際に会う前から、互いに似たものの考え方が備わっていたように感じ、それはまた日本人と中国人の作家に限らず、世界中の作家にも言えるとしている。

しかし、こうした優れた基礎があったとしても、中日両国の文学交流には依然として「障壁」は存在するとしており、「両国の間には歴史認識を含む政治的課題もあり、取り分け日本政府、日本社会には、自国の過去に対する健全な批評性が不可欠だが、文学的な交流にとって、そのことが最大の『障壁』となるとは考えていない。やはり本質的には、言語の違いではないだろうか」としている。

翻訳作品はその数が限定的であるため、互いの国の文学の全容をなかなか掴めず、また、それぞれの言語固有の美しさや意味を鑑賞できない危惧もあると指摘し、それを克服するには、「地道に翻訳作品を増やし、実際に会って、交流を重ねていく以外にない。相互の理解が深まっていけば、翻訳に誤訳があっても、『原語ではもっと違ったことを意味しているのではないか?』といった想像も働くようになる」とした。

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