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元八路軍日本人兵士の小林寛澄さん「閲兵式に出席できて光栄」
本誌記者 繆暁陽  ·   2015-09-07  ·  ソース:
タグ: 小林寛澄;元八路軍日本人兵士;中日交流
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寺の住職、中国侵略日本軍兵士、抗日八路軍兵士、遠洋商船翻訳、日本八路軍新四軍戦友会会長……これらは小林寛澄さんが人生で経験してきた5つの肩書きだ。小林さんにとって、最初の2つは自分で選ぶことができず、3つめは一生の誇りであり、4つめは名乗った期間が最も長く、5つめは特に大切にしているものだ。

9月2日~3日、日本八路軍新四軍老戦士会会長の小林寛澄さんは日本老戦士代表団団長として、北京で行われた中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典に出席した。閲兵式の前日、小林寛澄さんは中国で96歳の誕生日を迎えた。

今回の抗日戦争勝利閲兵式に出席する気持ちを聞かれた際、小林寛澄さんは「光栄です!うれしい!」と感激に満ちた様子で語った。小林さんは、「今度の閲兵式には同志がいる。その人と握手する時は、それは感動するだろう」とも語った。

1919年9月2日、小林寛澄さんは群馬県の寺の住職の家に生まれた。小林さんは家業を継ぎ、家庭を築き、裕福な生活を送れるはずだった。しかし、日本が侵略戦争を発動したため、1940年、小林さんはやむなく中国侵略日本軍の一員として中国山東省の地を踏み、青島付近の桐林分遣隊でトーチカの守備に当たった。

1941年6月19日は小林さんの一生におけるターニングポイントとなった。この日、小林さんは所属する小分隊に従って牟平県付近の掃蕩を行っていた際、捕虜となったのだ。軍国主義思想に洗脳された日本軍兵士にとって、それは大いなる恥辱だった。小林さんは2度自殺を図ったが、2度とも八路軍に助けられ、適切な治療を受け、優遇された。

小林寛澄さんはこう振り返る。「75年前、私は戦場で銃口を八路軍に向けた日本兵だった。それなのに、八路軍の捕虜になった時、八路軍は私を敵として扱わなかったばかりか、十分な自由と平等を与え、友人や兄弟、同志として接してくれ、無知な私の目を本当の意味で覚ましてくれた」。

小林さんの話では、八路軍の行軍に従って移動する途中、小林さんは多くの中国の村が日本軍によって焼かれ、無数の村民が日本軍に殺されるのを目にして、内心慚愧の念に堪えなかったという。小林さんは徐々に、日本帝国主義が中国に対して発動したのは侵略戦争だったと思うようになっていった。

1941年9月18日、小林さんは正式に八路軍の一員となった。八路軍に加わった後、日本軍に対する反戦宣伝工作に積極的に加わり、反戦ビラの配布、標語、電話などの方式で武器を手放して投降するよう日本兵に呼びかけた。時には生命の危険を冒して日本軍の拠点近くまで行き、直接大声で呼びかけることもあった。山東軍区政治部の舒同主任の紹介で、小林さんは共産党に入党し、外国籍中国共産党員となった。

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